GW中に、ネットでたまたま今昔物語集の舞台となった場所を紹介する新聞の文化欄で「今昔物語集 巻22 第7話 高藤内大臣語 第七」という説話を読みまして、その舞台である、山科区勧修寺地区と伏見区醍醐地区を5月10日に歩いてきました。 | ||
勧修寺は地名では[かんしゅうじ]と読みますが、お寺の名前は[かじゅうじ]と読みます。 初夏の時期は、境内の氷室池にカキツバタやハナショウブ、スイレン等が咲き乱れて多くの参拝者を喜ばせてくれるのですが、今のところはコロナで閉まっております(-_-;) |
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↑「勧修寺八幡宮縁起絵巻」より さて、肝心の説話ですが、 『昔、藤原高藤という公達がまだ青年のころ、今の山科区に鷹狩りに行き急な夕立にあって、ちかくの民家に雨宿りに駆け込みます。 そして初々しく給仕してくれたその家の娘を見染めて一夜の契り♡を結びます。 翌朝「決してほかの男の妻になってはいけないよ」といって、形見の太刀を与えて都の家に帰ります。 それから事情により、5、6年も山科に行けないのですが、一時も娘のことを忘れられません。そして数年後、ようやく山科に行ってみると娘は美しく成長して、さらに傍らに5、6歳にみえる女の子を置いています。 「この子は誰か」と尋ねると、「貴方さまのお子でございます」との家人の返事。顔つきも自分にそっくりです(^.^) 翌日、妻となる宮道列子と娘の胤子を屋敷に連れてかえります。 のちに、胤子は宇多天皇と結ばれ、醍醐天皇を生み、高藤は内大臣に、胤子の兄弟の定国は大納言、定方は右大臣に昇り、一族は繁栄を極めました。めでたしめでたし(^^♪』 という、シンデレラ・ストーリーです。 この下級貴族の娘が藤原北家の御曹司と結ばれる玉の輿の話は、当時は説話集に取られるくらい知られた話であったようで、源氏物語を書いた紫式部も、高藤・列子の子孫にあたり、光源氏と明石の上のロマンスはこの二人がモデルといわれています。 ※今昔物語の現代語訳はこちらを参照 ※原文はこちらを参照 |
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醍醐天皇が母胤子の死後、祖父母の高藤・列子のロマンスの地である宮道弥益の屋敷跡に建立したのが勧修寺の起こりであり、弥益、列子、高藤、定方、胤子などを祀るのが、勧修寺の南隣の宮道神社です。 | ||
藤原定方は三条右大臣と呼ばれ、百人一首の25番 「名にし負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」(「後撰和歌集」恋三701)で知られますね(^^) 歌碑が境内にありました。 |
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宮道神社から大岩街道をはさんで、さらに南の山麓には、勧修寺八幡宮があり、ここにも醍醐天皇ゆかりの井戸があります。 | ||
勧修寺から山科盆地を東に1キロほど、歩いても15分くらいで、小野小町ゆかりの小野隋心院につきます。 奈良街道にかかる「化粧橋」が、絶世の美女とあまりにイメージが違って大笑い(;^ω^)ですが、深草少将が、大岩街道を越えて百日間通われた道の一部なんでしょうね。 |
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隋心院の東に、醍醐天皇の御陵があります。今昔物語の最後にも、 『弥益の家のあたりをなつかしく思われたのでしょうか、御陵はその近くにあります。 考えてみますと、かりそめの鷹狩の雨宿りによって、このようなめでたいことにもなったので、これはみな前世の契りであったのだ――とこう語り伝えているということです。』 と結ばれています。 勧修寺は、なんどかお参りしたことがありますので、この説話をお坊さんが説明してくれてるかもしれないけど、聞き流してました(^^; 純愛物語に(笑)に感動して、その舞台を訪ねるのは、今のアニメの聖地巡礼と変わりませんね(^_^;) * |
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次回は、深草の里を歩きます * |
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