5月18日は振休がとれたので、南河内の社寺と古墳群を巡ってきました。 | ||
毎月18日は、観音さまの縁日。葛井寺と道明寺の国宝の観音さまもご開帳されるので、まずは藤井寺市に向かいます。 | ||
阿部野橋から近鉄の藤井寺行きに乗りますが、河内松原駅で途中下車することに。 | ||
スマホの地図をみると、百舌鳥・古市古墳群を貫いて、堺から葛城・飛鳥に通ずる長尾街道が松原駅前から並走するので、歩いてみることにしたのです。 | ||
しばらくは、住宅地のなんの変哲もない道ですが、羽曳野市内にはいると、ため池に浮かぶ小山のようなものが見えてきました。 雄略天皇陵とされる島泉(高鷲)円山古墳です。 |
||
雄略天皇は、歴史好きには文学的には、万葉集の巻頭歌をかざる帝として、考古学的には、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に名が刻まれる「ワカタケル大王」として、有名ですね。 この古墳が雄略天皇の墓かどうかは別としても、ヤマト王朝初期のロマンを今に伝えています。 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家をも名をも (巻一の一) |
||
さらに歩くと藤井寺市内にはいり、平野からやってくる古市街道との交差にでます。 「右ハいせ 道(明寺) 葛(井寺)」 ()内は埋没('◇')ゞ と彫られた道しるべがあります。もとは灯籠だったそうですが、上部の火袋と笠は無くなってます(^^; |
||
この三叉路に善光寺があります。門前には「日本最初善光寺如来」の文字が。 言い伝えによると、『推古天皇の御代、本田善光が信州への帰途に難波の堀江で拾った阿弥陀如来像を背負って小山の里の小さな堂に宿泊した際、住職がその仏像を所望しましたが聞き入れられませんでした。そこで、三日三晩念仏を唱えたところ二体になり、その一体が善光寺、もう一体が長野の善光寺の本尊となった。』とのことです。 本田善光が仏像を持ち帰る話は有名ですが、二つに分裂する話ははじめて聞きました。しかも摂津から信濃なら山城から近江へ東山道を通った方が早そうなのに、なぜに南河内を通ったのか?大和(飛鳥)にまだ用事があって、伊勢から尾張を通って木曾路に入ったんですかな(^_^) |
||
葛井寺の門前町の入ります。古い民家もおおく残ってます。カフェになったり、 | ||
コロナで休んでましたが(>_<) ネコグッズ専門のミュージアムがあったり、 | ||
いけず石をならべた民家もあります。 | ||
ところで、このいけず石は本来は何だったんでしょう? 切れ込みに木材を差し込む台座のようなものだったのか。 | ||
線路を渡り、アーケードを抜けるとお寺です。 * |
||
(前の記事) | (大阪城公園の昼休み) | |
(次の記事) | (葛井寺から古市古墳群を歩く) | |
読んでいただいてありがとう! | ||
(TOP記事へ) |