ピンぼけブログ館II

京都人のおじさんです。仕事場は大阪船場。近所をブラブラ歩きながら、写真を撮ったり、お寺や神社に参ったり、ギャラリーをのぞいたりしてます。余り飛び回れなくなりましたが、鉄ちゃんでもあります。 よろしくお願いします。地元の叡山電車の写真をメインとした鉄道の話、京都・大阪とその近郊のお散歩やギャラリー巡りの感想、ちょっと遠出できたときの旅行記、などなど、なんでもありの雑文などをぐだくだと.... (by なかっちょ from Kyoto)

「津田青楓と京都」展 in 京都文化博物館

  ようやく再開された京都文化博物館で、生誕140周年「津田青楓と京都」展を見てきました。  

f:id:nakkacho902:20200526221650j:plain津田青楓「うづら衣」 1903年

 

津田青楓(つだ・せいふう 1880-1978年)は、京都でうまれ育ち明治から昭和にかけて、京都と東京を拠点に多彩な活躍をした文化人です。
活動の軸がころころ変わり、また手を広げすぎたためか、長い活動歴に対してあまり知名度が高いとは言えません(^^;

管理人も名前と活動の一旦(図案家)を過去の展示会などで知ってるだけで、詳しくは、知りませんでした。

会場は2階の総合展示室ふたつを使って、
①明治20~30年代の図案家時代の作品-代表作「うづら衣」明治36年など

②明治40年代から大正時代にかけての、フランス留学の成果としての洋画-代表作「お茶の水風景」大正7年作、や、夏目漱石との交流からうまれた小説の装丁-代表作「道草」「明暗」など

お茶の水風景」は明治24年竣工のニコライ堂が描かれてますが、明治37年開業の中央線(当時は甲武鉄道)が描かれていないので、明治30年前後の情景かと。

③昭和戦前になると、京大のマルクス経済学者の河上肇の影響を受け、プロレタリア美術にのめり込んでいきます。
代表作「河上肇像」大正15年、展示はされていませんが小林多喜二の拷問死を題材にした「犠牲者」昭和8年など
青楓自身も特高に踏み込まれて検挙され、転向して結局、洋画から日本画に戻ることになります。

④戦後は画家はもちろん、書家、歌人、随筆家、良寛研究家など幅広い分野で活躍し、満97歳の長寿で亡くなっています。

 

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大月源二「告別」1929年
  と、展示会の説明をもとに簡単に略歴を書きましたが、社会主義を信奉してプロレタリア芸術にのめり込んだのは知りませんでした。
京都での活躍を主眼に作品が選ばれているため、東京での事件である「犠牲者」は出ていませんが、プロレタリア作家の大月源二による「告別」-右翼に刺殺された労農党代議士の山本宣治の葬送の絵とデスマスクは、衝撃的でした。
戦前から昭和50年代くらいまでの京都では「マルクス」は大きな流れのひとつで、政治・経済・文化を問わず「信奉者」になるひとは多かったです。
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